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さあ、呼吸を始めよう。
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 九月十五日、海穏やか、食後デッキでタバコを喫つてゐると近くで水煙が上がつた、船を面白がり併走してゐるらしく何度も吹き上げる、やがて波間に背を覗かせた、一度船員室に戻つて是を書いてゐる、外では記しておくべきを幾つも思ひ付いたといふのに既に殆ど忘れてゐる、海風に溶けてしまった、近頃の自分は色々な事を忘れがちだ、思想も詩句も意地も悲しみも海の風には敵わない、波音にも敵はない、そもそも自分といふ存在からして彼勇魚の一瞬の夢かも知れぬ。
 海暮らしが続くと陸での思ひ出がみな昨夜の夢か妄想かに思へてくる、家族も友も今頃は自分を、彼奴は幻だつたとでも感じてゐるだらう、いつそ生身の自分は誰からも忘れられてしまひたい感じる事がある、ただ手紙のインキの染みとして彼等を未来で待ち受けたい、自分は一刹那の永遠である、海の上では何故だかそう確信できる。
 雲の加減で、デッキに落ちた自分の影が丸亀や神戸での其をを思はせる美しい紫に移ろつたが、直ぐさま黒々たる生命体に返つた、影は一切を記憶してゐる、長らく海に出てゐると生身と影が入れ替はつてしまふらしい、ならば仕方ない、運命ばかりは抗へぬ、いつそこのまま希薄になり透明になり、代はりに自分は海にも陸にも濃き影を遺そう、小さき闇は何人かが灯せし焔を赤く輝かせるだらう、再びデッキへの扉を開き風と波の狭間へと出てゆく此身を焦がすがいい、太陽、俺は此処に居る。

              (津原泰水『赤き竪琴』)
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