さあ、呼吸を始めよう。
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少女の唯一の友だちは、小さな小さな黒猫だった。猫としか話さない少女を周りの大人たちはなかばあきらめの目で見ていた。仕方ないことだ、そう思っていた。少女が外に出られるのは午後四時から五時のわずか一時間で、だから少女が話をするのも一時間だけだった。少女が何を話しているのか、誰も知らなかった。若い看護婦が植木に隠れて少女の話を聞こうとしたが、声が小さくて聞こえなかった。それにしても、と大人たちは思った。どうして少女と黒猫は毎日違うベンチで出会うことができるのだろうと。若い看護婦はいつも見てる。少女は午後三時五十三分に病室を出る。足を引きずりながら歩く少女の歩みは遅く、病室からわずか三十メートルほど離れたエレベーターの前に行くまでに三分ほどかかる。若い看護婦がいつもエレベーターのボタンを押してくれているので少女はすぐに中に入る。若い看護婦はいつも少女に一声かけることにしているが、少女は返事をしない。目も合わせない。しかし、若い看護婦はそれでいいと思っている。いつか必ず声を返してくれる日が来ると、若さ故の情熱で信じている。私の声が少女の笑顔を取り戻すのだと。エレベーターが一階まで着くと、少女は中庭に向かって、またゆっくり歩き出す。中庭にはいくつもベンチが設置されているが、いつもその半分は誰かいる。一人で本を読んでいる人。見舞いに来た家族と話している人。ここで出会った恋人と見つめ合う人。少女はいつも、一番周りに人のいないベンチを選んだ。その他にも少女なりの選ぶ基準があるようだったが、若い看護婦にはそれが何なのか知らなかった。若い看護婦は早いうちに見つけてみせると、周りに宣言していた。地図と表を作り、毎日記していた。昨日の晩、勤務が終わった後にその手製の地図を眺めていたら、何かわかりそうな気がした。しかし、わかりそうというだけではっきりとした考えはまだなかった。少女がベンチに腰掛けるとすぐに黒猫はやってくるのだった。そして黒猫は少女の隣に寝転ぶ。このときいつも時計は午後四時三分を指している。それからしばらくして少女は話し始めると思われるが、その時刻は誰も知らない。
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